ある程度経済が成長すると、企業の生産力に対して個人の消費力が足りなくなり供給、あるいは効率過剰になる。
しかし生産効率を落とすのは競争原理的に不利なので選択しづらく、また効率過剰である以上失業率が上がってしまうので、個人の消費力がさらに足りなくなっていく悪循環に陥る。
個々が合理的に判断し行動した場合、全体の幸福度が下がるといわれている。
それは個人の短期的な利益の追求、すなわちズルの許容によって発生する場合もあれば、先の例のように誰も悪くないのに全体が悪くなる場合もある。「誰かに嫌われようと思うのならば、正論を唱え続ければいい」というのもあるし、「地獄への道は善意で舗装されている」という言い回しもある。「貴方の為を思って」が、本当に為になることはたぶん少ない。
「よくわからないもの」というのはストレスになる。
だから宗教は世界を定義したし、不思議な現象には妖怪の仕業というカバーストーリーが付く。
普通の人はわかりやすいものに飛びつき、わかったつもりになり、ストレスから解放され、快感を得る。
ストローマンに釘を打ち付け、悪人を倒したつもりになり、そうしてみんなが少しずつ悪くなっていく。
公務員の給料を下げた結果は公共サービスの質の低下を招き、もっと即物的には特別定額給付金の遅れとして表れている。
トレパク問題はなぜいつまでも出てくるのか。
たぶんあれは「評価が欲しい」という話ではなく、「よくわからないから模範解答が欲しい」という話なのだろうと思う。
実際権利関係さえクリアであるなら問題ないとする人は多い(もっともクリアしてない人の方が多いだろうが)。
しかしやっていることは問題集の巻末回答例を写している作業に過ぎない。
「間違っていてもいい、むしろ迷ったり間違ったりすることがいい」という価値観は、たぶん少数派だろう。
そんなことより「よくわからない」ということの方が問題なのだ。
快感こそは正解であり、価値あることである――果たして本当に?
正しさの価値は、それによってもたらされる結果によって算定されるのであって、きっとただ正しいだけでは意味がない。
正しさのその先にあるものはどこにあるのだろう。
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