人間は選択を行う際に「心のエネルギー」みたいなものを消費する。
このエネルギーは基本的には寝たり、気分転換したりといったことでしか回復しない。
回復しづらくなったりしたときは、うつ病とか言われたりする。
そして成長するにつれてこの「心のエネルギー」の損耗を抑えるように人間の精神は変化していき、その最大値は徐々に小さくなっていく。
選択とは、正解を見つけるということではない。
本来等価であるはずのものに優先順位をつけることである。
これを人物に対して適用した場合、一般に差別と呼ばれる。
しかし人間から優先順位をつけるシステムを削除すると、社会活動ができなくなる。
それはつまり、今日何を食べるかを考えることができず、休日にどこへ遊びに行くかを考えることができず、誰かを大事に思うことも(あるいは誰かを嫌うことも)なくなる。
悩むばかりでどこへも行けなくなる、と言ってもいい。
よって、人類が差別から逃れる方法はない。それはある意味で人間や社会から逸脱することだからだ。
また世の中には正解のないことが多く、しかも恐ろしいことに、正解がないくせに明確な失敗自体は存在している。
共感性羞恥といって他人の失敗を見て自分がいたたまれなくなったりすることがあるように、あるいはシャーデンフロイデといって他人の不幸を喜ぶ気持ちの裏返しとして、多くの人は失敗を恐れるようにできている。
同時に正解めいたもの、つまりは社会規範だとか、お手本だとか、テンプレ装備だとか、攻略法みたいなものは存在している。
それらの多くは、おそらく「正解のない場所で、失敗するかもしれないという不安から逃れるために、一定の合理性をもっていた」のだろうけれど、形骸化した儀式(ルール/マナー/立ち居振る舞い)に縋る姿はしばしば滑稽で、そして今更正解だったはずのものを否定し再選択するだけの「心のエネルギー」のようなものはもうないのだろう。
「かつての自分の選択を間違いだったことにしないために」「迷わないように」「悩まないように」
そうして顔のない群衆が出来上がっていく。
嫌味なクラスメイトだとか。
守銭奴パワハラ無能上司だとか。
「近頃の若い者はこんなことも知らないのか」と言う老人はきっと、若かりし頃は「流行りのこれを知らないなんて遅れている」などと言っていたことだろう。
少しずつ降り積もった「当たり前」は、どこかで「よくある何かがおかしいもの」へとすり替わっていく。
それを僕は「テンプレ雑魚モブ化」と勝手に呼んでいる(前にも言った)。
しかし最近、選択そのものを忌避する性向が強くなりつつあるように思う。
これがどういう意味を持っているのかは……そのうちわかるのかなあ。
この投稿に最初のコメントをしましょう!