メモログ

駄文2018/03/13

タグ: エッセイ 

・理想は遠い

 本日は著しい不調につき、日課の順番を入れ替えて過ごしている。過去の駄文を最初から読み直したり、英語でゲームをしているうちに昼になってしまった。

 春が近づいているせいか、眠気が強い。カフェインを摂っているにも関わらず、頭に靄がかかったような思いがする。そういう時は無理をしないで、のんべんだらりと過ごすことにしているけれど、焦りも募る。

 それは「本当はこれくらいのことができた」という仮の水準があって、現況と大きく乖離している時に顕著になる。しかし、元から何もできないところを、かろうじてやれないこともないことを一つずつ選んでやっているのだ、という前提を思い出せば、特別に苦しむべきものでもない。

 自分の機嫌をどう管理しようかと考えていた時期もあったけれど、機嫌なんて制御できるものではない。腹が立てば腹が立つし、しんどければしんどい。

 幸か不幸か、体調が良いときにはあまりやりたくない単純作業が溜まってきたので、それを済ませてしまおうと思う。

・恵まれた者が抱える問題

 正直に言うと、つまらなさというか、何かをしようという気を妨げるものが強くなっている。ふさぎ込みとは違う、不満や不平に近い気持ちが高まっている。これも春の所業だろうか。

 もし不満だとしたら、それは外に向かっているものであって欲しくない。あくまで自分が楽しむために、一人であれこれをしているのであって、それを評価されたり反応があったりということは、自分で制御できるものではない。

 いくつかの分野で、そういう不満に呑み込まれている人を見たこともある。その不満を表明することはもちろん、内に抱えるだけで、評価よりも大事なものを損ねてしまうのだなと思ったことを思い出す。「評価よりも大事なもの」とは、作品することそのものである。

 今、自分がそういった状態に陥っていないといえるだろうか?もっと物事がうまく運んでほしい。そうでなければ「つまらない」という感情が、どこかにあるのではないか?

 少しずつ切り分けていこう。まず、そのような不満があると仮定すると、それは今までに、物事がうまく運んだ経験があるからだ。事実、その経験によって、今も期限付きではあるが生活を維持できている。柳の下のドジョウとまではいかなくても、同じくらいかそれ以上、自分に都合のいい展開を求める気持ちがあるということは認めよう。

 次に、自分が求めるべき状態というのは、「物事がうまく運ぶ」ということではなく、「『物事がうまく運ぶ』こと抜きにでも、理想に近い生活を送れること」ではないか。この方が、余計に贅沢な望みのようにみえて、かえって自分で働きかけできる部分が多くなる。

 さらに言えば、「物事がうまく運ぶ」ことへの執着を、いったんオフにすることで、たった今の心を平穏に近づけることができまいか。それは、「何もかもが虚無」というほどのヒステリックさを持たずに、「そこは自分で制御できることではないので考えない」という、積極的な思考停止という態度に近い。

 ただ、物事がうまく運んでいるのかどうか、という視点は保ったほうが良さそうな気もする。しかし、執着を取り払うという意味では、このモニター機能もいったんオフにしなければなるまい。ケーキを見ながら我慢するよりは、見えなくしたほうがいい。ここで「いったん」と限定的にしているのは、状況確認を完全にやめるということは得策ではないという判断からである。

 物事の「運び」というのは、良い時もあれば悪い時もある。その変動に振り回されずに、自分の生活を維持すること。思えばそんなことについて思いを巡らせるだけの余裕が出来てきたということでもあるのだろう。

 恵まれている人間に悩みがないということはないし、恵まれているということが、その問題の解消に代替するということもあり得ない。では、少し話題を戻して、「『物事がうまく運ぶ』こと抜きにでも、理想に近い生活を送れること」を実現するための、具体的な方策とは何だろう。

・認知資源の為替

 一つは貯蓄であろう。一時的な困窮であれば、それで凌ぐことができる。個人の家計に限定しなければ、その貯蓄というのが社会資源を指す場合もある。そこにアクセスする方法(個人としての資産の確保を含め)を身につけておくことが出来ると良い。

 貯蓄という概念を、社会資源にまで拡張してしまうのであれば、「情けは人の為ならず」ということもそこに関わってくる。もちろん直接的な見返りを求めることはしないとしても、巡り巡って自分に回ってくるように、社会資源の提供を行うということである。

 ただ、そういう拡張的な貯蓄であっても、あくまで自分に余裕がある場合にのみ選択できる行動である。将来の自分を含めるであろう社会に対して資源を提供することのできない場合、余裕のない場合には、貯蓄とは別の方策をとる必要がある。 

 助けを求める、ということも、立派な手段であろう。社会的資源の貯蓄とは逆向きの力を発生させて、即時的な困窮を打破しようとすることだ。これは直接的な見返りを提供する責務も併せて発生することが往々にしてあるけれど、そこをクリアできれば救いの手を差し伸べてくれた相手ともども、喜ばしいことである。

 ただし、そのリスクを考えると、これは最後の手段にしたい。あるいは、頻回に使うべき技ではない。自分は一度それを去年末に使ってしまったので、現在は選択できない。

 三つ目の方法は「潤沢な資源を枯渇している資源に変換する」ということだ。時間と体力が有り余っているのであれば、それを金銭に変換することができるし、豊富な知識を使って、その労働を簡略化するということもできるかもしれない。

 ただ、為替取引のように、資源の種類変換には「手数料」のようなものがかかる。プラットフォームの使用料や変換成約までのタイムラグも「コスト」として計算に入れるべきだろう。

 では、自分の持っている「潤沢な資源」とは何だろう。それを別の資源に変換する手段としては、どんなものがあるのだろう。

・何度も同じ道を行く

 日中は自分の好きなことをやっているくらいだから、時間はある。ただ、先月のレシート内容入力が生活全体を揺るがすほどの苦役であったことから、対価のための労働は選択したくない。

 いや、自分が苦役であると感じない行為であれば、それで対価をもらう分には一向に構わないわけだ。その依頼が今月末の締切として1件ある。それをまず前倒しでクリアするというのも良さそうだ。同様の依頼が増えると嬉しいので、その方向へアピールしていくということも取るべき行動なのかもしれない。

 アピールできるだけのものを自分が持っていなければ、それも肩透かしになってしまう。自分のできることを増やしていくことへの動機付けとして、目標の表明と宣伝という手段を選ぶことも出来なくもないが、できることなら自分一人でひっそりとできることをしていたい。

 結局行き着くところは、「今やるべきことをやる」ということでしかないのだけれど、こうして迂回した思考を繰り返すことで、水を通すというか、望ましい意識を強化することができるような気もするので、つい何度も同じことを言うなり考えるなりしてしまう。

 その道中で、今まで気づかなかった些細なポイントを発見するということもある。また、まったく関係ない道を行くときに、何らかのヒントを見出すこともできる。

 「現場百遍」という言葉があるので、ここでは「思考百遍」とでもいうようなものが作用しているのか、ほんの少しずつではあるけれど、こんなつまらないことの繰り返しで、自分の生きづらさが減っているような感覚もある。
  • 公開日時:2018/03/13 13:45
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